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ディズニー都市伝説|ウォルトが著作権に厳しい本当の理由が悲劇的!?


ディズニー都市伝説|ウォルトが著作権に厳しい本当の理由が悲劇的!?世界一有名なネズミのキャラクター『ミッキーマウス』その生みの親について皆さんはどのくらい知っていますか?ディズニーが著作権に厳しい理由はミッキーマウス誕生に秘密があった!?今回は都市伝説『ウォルトが著作権に厳しい』理由を調査!

ディズニー都市伝説|ウォルトディズニーのプロフィールは?

ディズニーの著作権の話の前に、まずは彼についてご紹介します。

ウォルト・ディズニー(Walt Disney)1901年12月5日アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ生まれ。
自分の家の庭に鉄道模型を建設してしまうくらいの鉄道オタク。無類の動物好き。メリーポピンズの「2ペンスを鳩に」が好きで、週末にはシャーマン兄弟(のちにイッツ・ア・スモールワールドなどの名曲を作った兄弟)を呼び弾き語りをしてもらっていた。
ヘビースモーカーで知られていたウォルトだが、人前でタバコを吸う事が嫌いで必ず誰も居ない所で吸っていた。
サービス精神旺盛でとてもおおらかな性格。ファンのサインにも、予備の色紙を用意しているくらい快く対応していた。
どんなに有名になっても普通の生活を大切にしていて、高級レストランより大衆食堂に行きたがっていたという。
常に人を驚かすのが好きなサプライズ好き。

美術学校の夜間部で絵と写真と漫画を学び広告会社に就職。その会社で知り合ったアブ・アイワークスと共にアニメ会社を設立する。
倒産と再建を繰り返しながらも「兎のオズワルド」などのシリーズで成功するが、当時の配給業者にスタッフごとキャラクターを他社に奪われてしまう。しかし失意の中ミッキーマウスを生み出し、1929年にミッキーマウス主演『蒸気船ウィリー』を発表。世界初のトーキーアニメであったこの作品は世界中の注目を集める。3Dアニメやシネマスコープアニメなどを開発し高水準のアニメを発表し続ける一方、劇映画や動物記録映画なども開拓していく。
テレビ時代の到来と共に自社作品を大量提供しテレビとの共存をはかる。
1955年にディズニーランドを建設。その後世界各地にパークが建設されていく。

ディズニー都市伝説|ウォルトディズニーの生涯

上記でざっくりとウォルトディズニーについて紹介しましたが、とても波乱万丈な人生を送った方なのです。

鉄道員の父とドイツ人とイギリス人の血をもつ母との間に4番目の子として生まれたウォルト。父はカルフォルニア州で金鉱を探して暮らしていたが、生活の貧しさから定職を求めてカンザスやフロリダへと移り、その後仕事の関係でシカゴへ。さらに叔父の住むミズーリ州マーセリーンへ移り父は農業を始めたが、またしても上手くいかず数年後に同地を去り、家族で再びシカゴへ引っ越すことに。
少年時代から絵を描くことが好きで、7歳の時には近所の人に自分の描いたスケッチを売っていたことも。勉強をしながらも動物や自然などの絵を描いていた。
シカゴで暮らしてから、ウォルトも地元のマッキンリー高校に通いつつ美術学校の夜間部で絵を学ぶ生活をしていた。そんな中第一次世界大戦が勃発し、愛国心に溢れていたウォルトは高校と美術学校を退学し兄のロイと共に陸軍に志願することに。
この時、兄は兵士になれたがウォルトは年齢が1歳足りず秘密で書類を書き換えたが面接官に見破られ、兵士としての勤務の代わりに赤十字の衛生兵として従事することに。大戦終結後、廃墟となったフランスに居たウォルトは1年後に故郷のアメリカへ帰国した。
帰国後、家を出たウォルトは単身カンザスシティへ。漫画家としての活躍を目指し、まずは新聞で漫画を描く仕事を始める。しかし、当時は無名の新人に過ぎないウォルトへの依頼は少なく、ここでも貧しい生活を送っていた。見かねた兄のロイが知人に頼み、アートスタジオでの広告デザインの仕事を紹介してくれた。ここで、後に生涯の友人となるアブ・アイワークスと出会う。しかし翌年、2人はアートスタジオから契約更新を打ち切られ失業。そこで2人は新しい創作活動を始めることに。

ここから、遂にウォルトが漫画からアニメーションの世界へ進んでいきます。

1920年1月、アイワークスと共に「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を設立。しかし、早々にウォルトは生活の為にとカンザスフィルム社へアニメーターとして雇われ、会社は長続きしなかった。短編アニメの作画を担当する中、アニメーションの魅力に目覚め、漫画からアニメーションの世界へと興味が移っていく。
その後独立して個人事務所を設立したウォルト。フリーランスの製作者としてアニメ作品を制作し、高い評価を受けていく。順調に仕事が舞い込むようになり個人では事業の拡大に追いつかないと判断したウォルトは、数人のアニメーター仲間と再びアイワークスを呼び、個人事務所からアニメ制作会社を設立した。
弱冠20歳だったウォルトは、アニメ制作に没頭してしまい資金のやり繰りが乱雑になり、最終的に会社は倒産してしまう。この失敗から、経営面でのサポート役が必要と感じたウォルトは、再帰を図り映画産業の本場ハリウッドへと移住した。そして兄のロイと共に『アリスの不思議の国』シリーズの続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザーズ」社を興す。以前の様にアニメーター仲間を集め、さらに新人アニメーターも雇いディズニー・ブラザーズ社はアニメ製作会社へ転身。これが実質的な「ディズニー社」の設立であると言われている。
1925年、会社の従業員だったリリアンと結婚。実娘と養女の2人に恵まれ幸せな日々を送る。
1927年、興行師チャールズ・ミンスの紹介でアメリカの大手映画会社ユニバーサル・ピクチャーズとの繋がりを得、自社キャラクターとしてミッキーマウスの元になったと言われている『オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット』を生み出す。そのオズワルドを主役にしたアニメをユニバーサルで配給し制作した。オズワルドシリーズは大ヒットを博し、ディズニー社躍進のキッカケに。社はアメリカ屈指の映画制作会社へと急成長した。
しかし1928年2月、チャールズ・ミンツとの取引の際ユニバーサル社への法外な契約料金支払いを要求され、ウォルトはこれを拒否。するとアブ・アイワークスを除く社のほとんどのアニメーターが引き抜かれてしまい、さらには契約書が不利に働きオズワルドまでも奪われてしまった。

この件が後にウォルトが著作権に厳しくなった理由だとされています。

倒産寸前まで追い込まれたディズニー社、再建をするにあたりオズワルドに代わるキャラクターを生みださなければならなくなったウォルト。試行錯誤を繰り返しアブ・アイワークスと共に「ミッキーマウス」を誕生させた。

1948年頃にディズニーは遂にパーク建設を具体化させていきます。パーク構想にあたり、ウォルトは遊園地で子供を遊ばせている親が手持ち無沙汰な様子が気にかかり、大人も楽しめるテーマパークの建設を思い立ったとも言われているそうです。

アニメーション製作やテレビ番組の放映、パーク構想に期待を持った大企業などからの資金提供や資本参加により充分な資金を調達し、1954年7月にパーク建設が着工された。
そして1955年7月17日、遂にディズニーランドがオープン。その後、ディズニーランドとホテルなどを取り入れたウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートを作り始める。
しかし、ウォルトはディズニー・ワールド・リゾートの完成を見ることなく、1966年12月15日に肺がんによる肺炎で亡くなった。

ディズニー都市伝説|ディズニー作品の著作権が厳しい理由は悲劇的だったって本当?

ミッキーマウス誕生に大きく関わったオズワルドというキャラクター。ウォルトの生涯の中でも書きましたが、契約書が不利に働き奪われてしまいます。ディズニーが著作権に厳しくあたるのは自らが著作権で不利益を被ったからかもしれません。
そして、ディズニーが厳しく対応することで、今後著作権問題で被害を受ける人や企業を少しでも減らしていきたいという思いが隠れているのかなと感じました。

ディズニー都市伝説|ウォルトの格言!名言!

ウォルトの名言はいくつもあり、メディアでも取り上げられる事が多いですが、中でも1番有名なのはこちらではないでしょうか。

『夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢は実現できる。
いつだって忘れないでほしい。
すべて一匹のねずみから始まったということを。』

この言葉に、ウォルトの生涯やディズニーのキャラクター、パークへの想いが全て込められてるように思います。

『人生で経験したすべての逆境、トラブル、障害が私を強くしてくれた』

こちらの言葉も、ウォルトの生涯を調べた今改めて目にすると、何度も逆境に立たされても諦めずに進んでいったウォルトの強さが溢れているなと感じます。

ディズニー都市伝説|まとめ

東京ディズニーランドのシンデレラ城前で、ミッキーと手を繋ぎ笑顔で立っているウォルトの像。パートナーズ像というそうです。いつも微笑ましく見ていたのですが、ディズニーの背景を知るとミッキーとの絆を強く感じさせられます。
これからも『夢と魔法の王国』が沢山の笑顔と笑い声に溢れていくのを、1人と1匹は見守っていくのですね。